磯浜登望洋樓詩碑|大洗歴史漫歩(大久保 景明)

 大洗ゴルフ場の入口近くの、大洗神社東参道入口に「磯浜望洋樓に登ぼりて」の詩碑が建っています。

 

 夜登百尺海湾楼  夜登る百尺海湾の楼
 極目何辺是米洲  極目何れの辺か是れ米州
 慨然忽発遠征志  慨然忽ち発す遠征の志

 月白東洋万里秋  月は白し東洋万里の秋

 

 近代日本の漢詩中の傑作と云われているこの詩は、三島中洲が新治裁判所長時代に造られた詩で「霞浦游藻」の中に収められています。詩は着任の年明治6年8月、暑中休暇を得て、一週間あまりの旅行で、土浦、浮島、水郷、香取、銚子、鹿島神宮、鉾田ときて大洗に遊んだ時の作。「祠前の一酒楼に投宿、眼界千里、浩洋際無し、長谷経国称を投じ大息して曰ふ、古人望洋の歎、豈比を謂ふかと、余曰わく、以て樓に名づくべしと。逐に望洋の二文字を書して樓の主人に与ふ、酔後一絶を得」という小序がついています。

 この詩が有名になり、この詩を詠んだ所に立ちたいと来洗する者が多くなりました。而し、歳月がたってくると望洋樓も代が変り、環境も変化して場所も忘れられてくるので、ゆかりの地に詩碑を建てようと云う事になって、二松学舎の山田準先生や那智佐伝先生等が発起人となり、今の地に建碑されたものです。昭和9年5月のことです。

 詩文は中洲の書をさがしたが、当初はみつからなかったので、詩稿の中から集字して使用しようと同人等が苦心していたところ、間ぎわになって該詩幅が発見され、これを刻したものです。

 詩中の「慨然忽ち発す、遠征の志」が戦時中大いに強調され、多くの人々に愛吟されて、人口に膾炙されました。戦時中には千者参りの札がはられ、碑の字が読めない位でした。

 終戦になり、大洗海岸にある大洗ホテルが進駐軍に接収されて、米軍の情報部がここに駐留することになりました。

 地元旧磯浜町では大変な騒ぎになりました。「極目何れの辺か是れ米州、慨然忽ち発す遠征の志」と云うのですから解釈のしようでは、おだやかではありません。時機到来までは、地中に埋めておいた方がよいのではないか、と云う論まで出ました。町内の学者たちが心配して二松学舎に照会したところ、ただちに那智学長より返信があり「深く御配慮被下一時取外置可然仰越御尤千万に存候へども第三句「忽発遠征志」は遠く征行して米国に遊ぶ志を感発せる意に御座候へば、進駐軍の忌諱に触れ候こと決して可無之、全詩誦し来りて、平和の気義を見殺伐なる意味を覚えず候」として後記に「遠征は左氏伝定公4年万可以遠征」に出ずるも征行の征は征にして征伐の意に非ず。詩経の之干征の征にあたり(中略)其の他古人の詩に孤征又は独征に用いたるもの皆征行の義にして征伐の意に非ざるなり(後約)」と云う誠に明解な回答をいただきました。

 遠征には征伐の意は全くなく、むしろ米国に留学したいと云う意であろうと云う事になった。進駐軍の情報部の人々が町役場にきた時、この旨の説明をして事なきを得まして、町の幹部一同大いに安堵した次第でした。

 明治6年によまれたこの詩が、百年以上もたった今も、大いに愛唱され、周囲に旅館こそ多くなったが、この高台より太平洋を見渡せば望洋の感一入です。最近この碑の周辺を整備し、この名詩を更に顕彰しようとの声がしきりに興っています。皆さんのお力添えを願うや切であります。

 尚ご参考迄に付記しますと茨城県内には三島中洲の碑が三つあります。一つはこの磯浜望洋楼詩碑、一つは万里小路藤房公遺跡碑(新治村)一つは小田城墟碑(筑波町)です。


1982 春 地図⑪


著者情報もくじ


出典|大洗歴史漫歩、2002(平成14)年5月18日発行

著者・発行者|大久保 景明

印刷・製本|凸版印刷株式会社


登録者|田山 久子(ONCA)